映画上映後、各会場で交わされた
観客との白熱したディスカッション

2000年2月15日Chinemax X3にて

2/15 cinemax X3
司会:グレゴール氏(以下G)

G:この映画は普通の映画とちょと違うとおもいました。最初に見せていただいた時、私達は長いディスカッションをしました。非常に多くの問題を我々に提起した映画だったのです。まず最初にどういうアイディアがあったのでしょうか。それとも体験だったのでしょうか。どこからインスピレーションがきたのでしょうか。

槌橋:この映画は、「生きる」という基本的な事実から始まっているのです。この映画にある映像、音、様々なこと全てが僕の中に本来的にあったことなのです。映画というものはそういうもので、生全体、存在全体、それ以上に存在しないもの全てを内包するものだと思っています。だから、インスピレーションがどこから来たか、といえば生全体からきた、としかs言い様がありません。

G:シナリオはオリジナルなのですか、なにか下地があるのですか。

槌橋:完全にオリジナルです。

G:映画ができるまで長い背景があったと聞いていますが、製作期間はどの位ですか。

吉川:予定はあったのですが、通常、時間的拘束が最優先事項となりますが、監督の映画における表現に必要な撮影が一番に優先されるべきものだったので、確かに時間はかかりました。これは状況や、スポンサーがいるという拘束を超越してこそ、このような映画はできないということで、監督のイメージを矮小化しないということを優先して作ったので、実際苦労はいろいろあったのですが、それがこの映画にとっては必要なことだったので、今となっては時間がかかったり、苦労はありましたが、それを超えてこの映画ができたと思っています。

G:実際どのくらいかかったのですか。

吉川:プランニングが始まって、脚本を書いて5年、撮影に入って4年かかっています。 G:大変長い間かかったようですが、監督はシナリオを書くにあたって、いくつかの段階を経て書かれたのでしょうか、何回か変えたりしたのですか。

槌橋:たくさん変えました。最初このアイディアは10年前くらいに、アメリカで学んでいる時に考えたもので、コンクリートの山を積むという、映画にとっては非常に大きな金がかかる現実的ではないアイディアだったので10本目くらいの作品にしようと思っていましたが、何かの間違いで1本目になってしまいました(笑)。実際脚本を1年で全部書きったわけではなくて、最初の前半1時間半分だけでした。後半の1時間分を撮影しながら1年で書き、その撮影中に主役の男優をクビにしましたので、そのフィルムを全部、没にしまして、1年撮影を延ばしました。その間の1年に残りの30分を書いて、しかも撮影終了してから編集に1年かかっているのですが、その1年の間にまた脚本を追加して書き、追加撮影をしました。その書き足した分というのは、一番最初は企画していたことなのですが、撮影が困難だろうからという理由で削ってしまった部分なのです。でも、やはりどうしても必要だということで書き足し、付け加えて出来あがったということです。完成までほんとうにに長い間かかりました。

G:プロデューサーはいつも援助してくれましたか。これだけいろいろなことがあって。

吉川:いつも笑顔でと言うわけにはいかなかったのですが、常に前へ前へと、可能なことはやろうという意志で、なんとかサポートしてきました。

G:では、役者のお二人に質問です。このキャラクターはそれ程簡単ではなかったと思いますが、どの様になさったのですか。それから監督にも質問ですが、途中で役者を変えたと言われたが、ということは役者と映画は大変、密な関係にあったのでしょうか、役者を変えたからシナリオを変えなければならなかったということでしょうか。

山下:役に対する熱い想いがありました。まず、徹底的なワークショップ、リハーザルで話合い、自分と共通する、共感できる部分がこの役には多かったので、監督との話合いで自分のテンションを高めて作っていきました。

馬野:この役とこの映画自体が非常に難しいので、長い稽古から始まって、常に困難ばかりあり、自分の精神的、肉体的に限界ぎりぎりの状態で常に芝居ができた、ということが役を理解する上での一つの助けになりました。それからこの映画の中で多くの自然が出てくるのですが、その原始的な非常に力強い自然のインスピレーションを浴びながら、自分の持ってきた世界観と、その自然の力強さというものを膚で感じながら、もっと深い役の理解に繋がったと思っています。

槌橋:映画と役者についてと、役者を変えたことについてですが、私は最初から役者に、映画の役にぴったりはまるとかいうことを、それ程期待しないのです。最初は完全でなくてもいい。しかしながら変化していかなければならない、役者をそう言う風に変化させるのが演出家の使命であると思っていて、経験のない役者でも一緒にワークショップをやって、教えることによって、どんどん可能性を伸ばすことができると思います。それが演出家の責任なのです。そういうことができて、変化してく余地が有る人間なのか、変化することを意欲している人間なのかどうかが重要でした。最初の役者は変化することに意欲もなければ、自分に対する批判的意識もなかった、成長する可能性がなかったわけです。随分と稽古して、だいぶ教えたのですが成長しない、ということで仕方なく降ろしました。 それから、役者に対して映画の内容を変えることはないです。役者は映画の内容に忠実に、最も必然性のある形で表現しなければなりません。脚本に描かれている人物になり切る、つまり役者自体が消えてしまうというよりは、役者自体の人間が大きくなって、映像の中の人物を内包するように変化する必要があると思います。そういうことができる役者を探すということであって、役者を変えることで脚本の内容が変わることは、まずありません。最初に映画の内容があって、それから役者がある、ということです。

ディスカッションを熱心に見守る観客

観客(20代男性):私はまず日本の映画、ヨーロッパ映画以外の映画が見たいと思ってここに来ました。見はじめて最初は大変すばらしいと思ったのですが、途中から帰ろうかどうしようかと思いました。これからどうなっていくのか、わからない。哲学的な内容があるので静かなというより、なにかフツフツとしたものがある映画なので、これが静かな状態になっていくかもしれないと思って、とりあえず最後まで見ました。 最後まで見てよかったと思います。感動しました。よく言えませんが、この映画の中に描かれている社会問題とか、いろいろな問題を人が持っている、というのを自分自身も感じるし、よく言えないが、他の映画とは全然違う映画で、よかったです。内面から出てくるような感情を表すような、私は一体何を見たのか、よく考えてみたいと思います。私がよく考えたいと、ここで思うことは、この映画にとってすごく大事なことだと思います。 それと技術的なこと、テクニックのことでも大変すばらしいかったし、大変美しい映画だったと思います。シナリオも大変良かった。詩作のエッセイとして出来あがっているように思うのですが、シナリオはどういう風にできたのか、最後に伺いたい。二人の男女がそれぞれ抱えている問題があって、その問題の解決にだんだん近づいていく、どういうプロセスがあったのでしょうか。

槌橋:まず最初に非常にすばらしいお言葉をありがとうございました。なかなかそういう批評が聞けないので、ここで始めて聞いたので大変有りがたく思っています。 シナリオは非常に長い時間かかって書かれ、基本的に自分の生きた人生すべてからきている、といっていいと思います。根底にあるのは、自分の芸術的探求というもので、哲学的と言われますが、本当は哲学ではないのです。芸術のなかに含まれる哲学的要素ということでしかないのです。僕にとって哲学は芸術の中の1ジャンルです。哲学、科学など全部、また道徳的なことを含め、全て美的な問題として捉えることが出来ると思っています。シナリオは僕の芸術的体験からきているのです。僕はミュージシャンですので、音楽もやりますし、文学、絵画というものにも触れてきました。それれが全て統合され、ここにきたということです。 物語についてですが、男と女というよりは、これは1個の人間の在りようの物語なのです。当初女性が主人公ではなく、同じ内容で主人公は男でした。男女がどうあるかということが問題になっているのではない、主人公はどちらでもいいと考えて、入れ替えたのです。人間がどう生きるのか、どう死ぬのか、なせ人間が生きているのか、ということを提示する、探求するということが芸術の本来の宿命、使命であると思います。それは非常に曖昧で、具体的に存在しないようなものです。現実の世界では、これといったはっきりしたものがない。そういうはっきりしない、存在しないものを存在するようにさせる、というような機能、システムが芸術にはあるということで、それを徹底的に探求していこう、ということを私はやろうと思ったのです。

G:最後の質問ですが、監督にとって自然とはどういう風に思っておられますか。

槌橋:ゲーテの言葉に「自然の中に神がいる」というのがありますが、僕は非常にドイツ文化に影響を受けていまして、それでこの映画を作ったようなものですが・・・。 自然というのは、ある意味において人間と同等なのです。人間は自然の一部で、そうではないと言う人もいますが、その自然のある機能の一つとして人間は存在し、一部であるということ、自然全体として人間を含めた全体として、物理的な物も含め存在する現象全て、統一的な全体性として人間と自然は融合して在ると思います。 それと人間の中には不在という観念、単純な自然の中に存在しないものがあります。「無」と言えば一番わかりやすいと思いますが、そういう不在なるもの、存在せぬものを含めて世界全体を成立させるため、自然があり、その重要な機能として人間があると考えます。そしてその重要な「不在」を提示することが、芸術の基本的役割であるのです。私はこの映画を作って、自然の機能を完結することを目指しているわけです。

G:今日は大変興味深いお話をありがとうございました。もっとよくこれからこの映画について考えさせていただきたいと思います。この映画は私達の中に、一つの軌跡を残したというふうに思います。

槌橋:最後に一言。最後まで残ってくださりありがとうございました。 上映に困難なこのような映画を、ベルリン映画祭に呼んでいただき大変光栄に思っております。この招待上映がなければ、世界から消し去られることになって、私達は首をくくって死ぬしかないのではないかと危惧していましたが、何とか生き延びることができました。このチャンスを与えてくださったグレゴール氏、スタッフの皆様、それと観客の皆様にありがたく感謝している次第です。どうもありがとうございました。

Back / Japanese Index
Home