近藤大地氏の寄稿

 

 

ホロヴィッツの骨董コンサート(1)

〜有機的生命体としての音楽〜

 誰の前でピアノを弾くのが一番厭か考えてみた。勿論、ピアニストは星の数ほど居るので、自分と関わりがあるか、CDなどでその全貌をある程度捉えられるピアニストに限定してである。つまり、アート・テイタムやベートーヴェンなどといった選択肢は含まれない。以前はバリー・ハリスがその筆頭だったが、ここ数年間で随分耐性が出来て、最近はそれほどでもない。今、一番目の前で弾きたくないのは間違いなくセロニアス・モンクだろう。私がどんなピアノを弾いたとしても、あの「ゴキーン」という音を一発かまされたら、「はい。失礼いたしました。」と退散する以外にない。

 ところで、未だに「モンクはよくわからん」だの「モンクは下手糞」だの言う輩がいるが、これには全く耳を疑う。モンクは紛れもなく「天才」であり、あの音を一音聞いただけでそれは一聴瞭然であろう。演奏家にとって何が重要かと言えば、一音聞いて「そいつだ!」と判ることである。その意味で、モンクほど強烈なジャズ・ピアニストはいない。そんなことを言うと「モンクはテクニックがない」だの「ピアニスティックじゃない」などと言われそうだが、そのようなテクニックがほしいのなら自動演奏や、それこそ掃いて捨てるほどいる「誰が弾いているんだか判らないクラシックピアニスト」に任せればよいし、「ピアニスティックである」こととは、「ピアノを自己表現手段として使いこなしているか」に尽きるのであって、その点でモンクに敵うピアニストはまずいないといっていい。あの音が幼稚にしか聞こえないとしたら、そう聞こえる耳が幼稚だ。

 では、ホロヴィッツの前で弾くのは厭か?と問われたら、実はさほどそうでもない。ショパンのバラードを弾けと言われれば勿論厭だが、それでもモンクほどではない。インプロヴァイズしていいのだったら、結構何とかなると思える。しかし、バックハウスやルドルフ・ゼルキンにはそう言った感じは受けないし(但し晩年の演奏は除く)、アルゲリッチやアシュケナージにも逆の意味でそれは感じない。その意味で自分にとって稀有なピアニストである。

 何故、そう感じるのだろうか。それは、ホロヴィッツが本質的にはインプロヴァイザーだからであり、他の演奏家は多くの場合そうではないからだ。そして、彼の音の説得力はモンクのそれと比類をなし、他を隔絶している。あの音を一音たりとも聞いたら、ホロヴィッツ以外のピアニストと間違うことはまずあり得ないだろう。私はこの二人の音楽に強く憧れている。こんなピアノを弾きたい、と思う。同時に、彼らの音楽は遙か彼方にあるが、私は同じ方向を向いているという連帯感も持っている。「クラシック・ピアニスト」で、私がそう感じるのはホロヴィッツ以外にはほとんど皆無だ。ちなみに、ホロヴィッツよりもモンクの前で弾くのがおっかないのは、モンクが私の師匠の師匠の師匠(バリー・ハリス→バド・パウエル→モンク)だからである。

 アシュケナージやアルゲリッチがインプロヴァイザーか? 否、全く違う。 ホロヴィッツとモンク。この二人は全く異なるようでいて実はかなり近い。勿論おのおのの土俵は違うが、一音の説得力、インプロヴァイザーとしての資質はとんでもない高みで一致している。ホロヴィッツのインプロヴァイザーとしての資質については後述するが、とにかく、両者とも音楽に対してとてつもなく自由な精神を持っている事は疑いようがない。彼らの音楽は固定概念という重力を脱し、遙か天空の彼方で鳴り響く。

 そこで、ホロヴィッツの骨董コンサートである。かのコンサートは吉田秀和の「ひび割れた骨董品」という戯れ言とともに全日本中を席巻したのだが、久方ぶりにその録画を見る機会に恵まれた。その映像が放送されたのは私が中学生ぐらいの時だったが、そのときに言語化できなかったことが今では言語化できる、というより寧ろ、今だからこそ様々なことを考えさせられるものだった。そのことについて述べてみたい。

 まず、あのコンサートは何だったのか?ということである。私は、あの演奏は史上空前の名演であることを断言したい。その第一の理由は、「一音たりともミストーンのない音がない」ということだ。

 「ミストーン」の定義とは何なのか。楽譜に書いていない音を弾いてしまったら「ミストーン」なのか。実は、これほど馬鹿げた話はない。なぜなら、我々作曲家が譜面上に表せるものは非常に微々たるものに過ぎないからだ。幾ら多く見積もっても私は10%以上にはならないと思う。譜面上に記録できるものはだいたいの音程とそのあくまでも相対的な強弱と大雑把な速さ、まあだいたいこんなところだろう、という程度のリズムぐらいのもので、五線紙上の同じ位置にある四分音符にも無限の選択肢がある。さらに、演奏される場所、時間、温度、心理状態、眠気、空腹感、幸福感、悲哀、体重、方向、朝食に何を食べたか、水を飲みすぎていないか、生家、飼い猫に部屋を滅茶苦茶にされていないか、友人関係、等々世の中の森羅万象全てがその演奏には反映されるし、それを演奏者、聴き手双方がどう受け取るかに依って音は全く違った意味を持つ。

 チェリビダッケは「演奏はその空間、時間に依って意味を持つ」ものであると定位し、音源を生前は絶対に発売させなかったが、これは絶対的に正しいことだ。また、作曲者の頭の中で鳴っている音にしてもそれは単なるイメージにしか過ぎず、それも所日が変われば変化するあくまでも相対的なものである。故に、譜面をそのままなぞっただけでは音楽になどなるわけがない。つまり、「作曲者のイメージ通り弾く」ことが出来なければ「ミストーン」であるとするならそれは無限に、日常茶飯事的に存在している。要は演奏会とはミストーンの連続であるといっていい。

 では、演奏家は何をしているのか、ということだが、これは「解釈」を提示しているのだ。無論、その解釈の方向性も無限であり、なるべくその作曲家に同化して、その作曲家が感じたことを出来るだけ忠実に再現しようとする演奏家もいれば、自分の内なる音に耳を傾け、自分で感じたものを極限的な誠実さを持って提示しようとする演奏家など様々だ。どの方向性が正しいなどといったことはない。ただそこに音楽に対する極限的な誠実さが存在するのであれば、その音楽は成立していると言える。

 どんな音であれ、音とはその前後関係や、それまで発された音に必ず影響を受ける。例を挙げるなら、沈黙の後に発された音と、オーケストラの最強音の全奏の後に発された音が、たとえ機械上の表示が同じ音程、強さ、長さであったとしても、その音の持つ意味は大きく異なる。故に、ステージ上で演奏する場合は、ある音が発される状況により、「ある音」の次に弾く音は変化するものであり、同じ音など絶対に存在しない。「音」とは他のあらゆる事象との相互関係、あるいは内的な相互の関連性によりその音楽的意味を持つ。なおかつ、音は流れていくものであり、空気中に消え去り二度と戻らない[(エリック・ドルフィー)。大海のうねりが二度と同じであることはないが如く、である。   

 しかし、ただ流動的であればいいかというと全くそれは違う。その流動する音塊の中には確乎とした意志、誠実さ、真実がなくてはならない。演奏家はそれが聞き手に伝わるように最大限の努力をするのであり、それはフルトヴェングラーであれ、グレン・グールドであれ、セロニアス・モンクであれ、ジョン・コルトレーンであれ、ジョン・レノンであれ、ジミ・ヘンドリクスであれ全く同じだ。余談になるが、現代音楽が壊滅した最大の原因は、「聴衆と音楽家の乖離」等という些末なことではなく(バッハであろうがベートーヴェンであろうがその乖離は等比級数的な大きさで存在しており、これは何も二十世紀になって始まったことではない)、流動性だけに目をとらわれすぎて、確乎とした意志が欠如し、真実が欠落していたことだ。大海はその流れが異なっていようと同じイデアを伝えねばならぬ。

 ホロヴィッツの演奏は本質的にインプロヴァイザーとしてのそれだ。そのことは、彼自身の言葉からも明らかである。「私の最上の演奏は決して完璧であったことはない。」「インプロヴァイズしてるんだよ。私だって音楽家の端くれだからね。」(なんて謙虚な言葉だろう!)インプロヴァイザーとは、演奏する前に明確なイデアと共に今にも吹き出しそうな深層のマグマを持ち、ひとたび演奏が始まると、そのイデアとマグマの複合体と、現実にその場で起こっていることが異なっていることを許容し、それに対して最上の結果を追求するのにあらゆる努力を払う人種のことを言う。私が出会った人間の中で、このことを最も強く感じたのはバリー・ハリスだ。彼は脳卒中から回復したばかりで、まだろくに動かず且つ変形した自分の左手をこう言った。「I kind of like it.(これはこれで結構好きだ。)」現実を受け止め、前に進む。

 ホロヴィッツの演奏には、演奏会の局面において現実世界の様々な影響を受けているにも関わらず、必ず確乎とした意志、誠実さ、真実が伴う。自分の思った通りではない音が出ることも多々あるだろう。しかし、その場合でも音と音との相互作用を通じて無限に多様かつ有機的な音楽を生み出していく。まるで、生態系の中での生命体の繋がりのような音楽だ。実は相互作用を通じて、無限且つ有機的に自己組織化していくことは、他ならぬ我々生命体の特徴である。免疫のネットワーク、脳内ニューロンのネットワーク、記憶、恣意的でない都市の形成、地球生態系、等々。ホロヴィッツの音楽は生命体そのものだ。

 彼が同じ曲を演奏したものを聞けばよくわかることだが、「同じ演奏」や「同じ音楽」は決して存在しない。だが、そこには必ず同じイデアが存在している。クラシック音楽のようなジャズに比べて制約の多い「Written Music」でこのようなことが出来るのは驚嘆すべき事だ。チック・コリアやウィントン・マルサリスとはえらく違う。

 また、彼の演奏は、どのような表現であっても、その音を聞いた途端に、その音が「真実」であることを確信させてくれる。これはベートーヴェンの音楽と共通しているのだが、その音を耳にした時のとんでもない「意外性」が、瞬時にして「真実」になるあの瞬間がホロヴィッツの演奏には存在する。まるで「神」のような、というよりも「神」そのものとしか形容しようがないあの瞬間である。

 さらにホロヴィッツの「音」である。一音聞いただけで誰が弾いているか判る、あの「音」。

 ホロヴィッツの骨董コンサートはそういった点で最上の価値を持つ。なぜなら、あれだけ譜面上にない音を弾きながら(実際、「譜面上にある音」を弾いている瞬間は皆無に等しい)、そして、彼自身の脳髄が指令している打弦を全くしていないにも関わらず、それでも確乎としたイデアが伝わってくるからである。私の心にダイレクトに伝わってくるからである。更に、そこに現出している音塊はホロヴィッツのそれで、他の誰の音でもない。演奏会の当日、彼の脳髄と彼の運動神経や感覚神経は何らかの原因で明らかに断絶しているが、身体機能上のハンデなど明らかに超越した音楽がそこには存在している。このようなことが可能な音楽家が他にいるとは到底思えない。ホロヴィッツのピアノは別世界から鳴り響いてきている。

 いったい、どこの誰が「譜面に忠実な」何の楽しみも感じられない無機的な音楽を奏せねばならないなどという間違った概念を流布したのであろうか。譜面上に記されてないと言うだけの、誰にでも判る(例えば音程の違いなど)単純なものだけを論って、それを鬼の首を取ったように騒ぎ立てる風習を、一体誰が定着させてしまったのであろうか。勿論、それは音楽などまるで分かっていない幼稚な自称音楽愛好家たちだ。そのような輩は、音楽を、小学生の四則演算計算の誤りと同レベルでしか捉えられてないのであり、彼らに出来ることといったら、せいぜいストックマーケットの株価の上下を自宅のパソコン画面で一喜一憂することぐらいだ。全身全霊を賭けて演じられている音楽は、全身全霊を賭けて聞くべきだろう。大海に浮かぶ泡沫だけを見て何か言おうとするその無神経さは何とかならないものか。


 実は、この随筆は連載にするつもりなどなかった。しかし、いったん書き始めると書かねばならぬ事が山のようにあることに気づいた。これまで述べたことに加え、骨董コンサートで明らかに判るのは日本の音楽関係者(特に演奏家や評論家)の絶望的な幼稚さであるが、このことを述べるには、骨董コンサートが史上空前の名演である第二の理由を述べなくてはならない。続きは次回に譲ろう。

  近藤大地(作曲家・ピアニスト)

Jan 9, 2006

 

Back / Japanese Index

Home