河原晶子(映画評論家)
バルセロナから電車で1時間余、黒い聖母マリア像で有名なモンセラのベネディクト派修道院に空中ケーブルでたどり着くと、修道院の背後に奇怪な岩山が異様な迫力でそびえ立っているのに出くわす。清廉で禁欲的な修道院にはおよそ不似合いの、まるで悪魔を想わせるような不気味な岩山。その姿が、なぜか、バルセロナの象徴(シンボル)であるあのアントニオ・ガウディの聖家族教会=サグラダ・ファミーリアの全容のようにみえてくる。事実、ガウディはこのモンセラの奇怪な岩山をイメージしてあの聖家族教会の建築に着手したらしい。
映画「TRUTHS: A STREAM」で橘響子と冴木峻一が自分たちの手で作りあげた"墓"を封印して創作したモニュメントは、まるでそのモンセラの岩山、ガウディの聖家族教会のようだ。ガウディの聖家族教会は1882年に建築が始まって以来、100年以上たった現在もまだ未完成のままだ。ひょっとしたらガウディは、それが永遠に完成しないことを意図していたのではないか。
でも、この映画の2人の"モニュメント"は完成する。完成したことで、この映画は自死から再生へと向かう人間の強い精神を提示するのである。死と再生。今、新しい世紀へ向けて、世界の映画作家たちがこの壮大なテーマに挑んでいる。
ラース・フォン・トリアーの「奇跡の海」、レオス・カラックスの「ポーラX」、そして青山真治の「ユリイカ」・・・・・・。思い出すなら、すでに亡きアンドレイ・タルコフスキーは遺作「サクリファス」でまさにそうした人間の原罪と救済を暗示していたのだった。「TRUTHS:
A STREAM」の中にも、ふとタルコフスキーを想い出す映像がある。
槌橋雅博監督は「自然の中に神がいる」というゲーテの言葉を引用しているが、そうした汎神論的世界を映画にしたのがヴェルナー・ヘルツォークだった、国や民族や宗教を超えて、今私たちが心の奥に通奏低音として響き続ける死と再生への問いかけ。その象徴があの奇怪な砂の山なのかもしれない。
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「したたかな挑発」
江口 浩(川崎市市民ミュージアム・学芸員)
『TRUTHS: A STREAM 』は驚くべき作品である。観客の側にこれほど留保のスペースを与えている映画は極めて稀である。
主人公たちが繰り広げる、饒舌でアグレッシヴなディベイトは実に刺激的だ。だが観客はその言葉尻を追うことに身を委ねてはならない。この映画の時間は物語を展開させるために存在しているのではなく、観客が映像や音響から得られる情報を咀嚼し、熟成させるために与えられているのだ。観客はただ漫然と、この映画を感じ取ろうとしてはいけない。分析し読みほぐさなければならない。
この映画の作り手は、パッケージ・ツアーの添乗員のように観客を誘ってはくれない。地図とコンパスが手渡されるだけで、観客は自らの知覚と才覚を頼りにゴールを目指すのである。ルートの選択は観客個人の手に委ねられている。そう、まさにゲームだ。観客各々が自主的に発展させ、完結させるゲーム。ただこのゲームが異色なのは、作り手はゴールをあらかじめ特定していないという点である。
換言すれば、この映画を観る行為は、さながら無地のジグソー・パズルを組み立てるようなもので、劇中に提示されるコード(例えば自然の営みや、人間の無償の行為の結果がカラーで示される、というような)を解析しながらピースを構成してゆくのである。しかも完成したパズルに観客自らが、各々画を描くことを作り手は要求している。それはどのようなものであっても構わないのだ。
3時間というこの映画の絶対時間を共有した観客が、主体的かつ個人的にこの映画を完結させるのである。この企図は締めくくりのナレーションによって、明確に宣言される。
この稿を書くにあたり再見して、ふと浮かんだ疑問。「主人公たちが黙々とオブジェを作り上げて行く行為は、この映画を製作する行為そのものと同義なのでは?」。この問いに対する答えを私自身の中に見出すためには、今しばらくの反芻と熟成を要するだろう。
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黒田邦雄( 映画評論家)
映画はなにより美しくなければならない。
そして映画が美しくあるためには、あらゆる制限から自由でなければならない。
「TRUTHS: A STREAM」には、真の自由を獲得した映画だけが持ち得る孤高の美しさがある。
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木村建哉
(映画美学・映画記号学/ドゥルーズ『シネマ』を読む会講師)
妥協せざるシネアスト槌橋雅博の「TRUTHS: A STREAM」は、徹頭徹尾実験的=前衛的な問題作であるが、同時に、血沸き胸踊る活劇=娯楽映画でもある。
槌橋は観客をしごきぬき、そして開放する。前半の試練に耐えた者のみを後半の至福が待っているのだ。3時間を超える長さがこれほど有効に機能している映画は稀有である。
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永島慎二(漫画家)
「この映画は、見るのにちょっと我慢しなきゃいけないよね。(笑)だけど、流行のおいしい料理屋で、どうしても食べたいという意欲のある人は、40分でも1時間でも行列して待つじゃない。それと同じで、「生きる」ということ「ものを創る」ということは、どういうことかと探究している人たちにとっては、我慢をしてでも見る価値のある映画だし、見て欲しいと思ってます。」
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佐藤忠男(映画評論家)
よほど時間をかけて徹底的にねばっても容易に撮れるものではない場面がいっぱいつまっている映画である。
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<TRUTHS: A STREAM>―美しき流れを追うひとびとへの賛歌
深田 独(横浜美術館学芸員)
1974年東京国立博物館で開催された「モナ・リザ展」には、150万人ものひとびとがつめかけた。が、その会場で、いったいどれだけのひとが遥か500年も昔に言語も文化も宗教もわたしたちとは異なる社会において描かれた一枚の絵画に感動しうることの不思議さに思いをはせたであろうか。芸術とは何か、という疑問に直結するその謎は、結論的にいえば、肖像画として描かれたであろう作品が、実用的価値と同時に普遍的な美的価値をあわせもっていたと考える以外にない。
<TRUTHS: A STREAM>は、現代日本ではしばしばアートというカタカナ語でうやむやにされてしまいがちなこの根源的な問いに、槌橋雅博監督が真正面から挑んだ作品である。
ひとは往々にして、時代の趣味や社会構造、政治体制などに基づく一般的価値には敏感であるが、普遍的な価値の存在には、死のその瞬間まで鈍感であるか、あるいは鈍感であるかのように装うのが常である。〈TRUTHS:
A STREAM〉は、絶えざる地下水脈のごとくめんめんと流れている普遍的なるものの流れを、時代におもねることなく見据え、追い求めることは、ときに勇気さえ必要とすることを思い出させてくれる。
この作品において鮮やかなカラー映像で表現されているような世界を、ひとは成長していく過程で、忘れていく。たとえば自然美の存在を忘却することは、この消費社会にあって良き社会人になるための第一歩ですらあるように思われる。わたしたちはだれでも、各自の効用価値基準に基づいて自分の日常世界を構成しているものだが、山下葉子演じる響子がしがらみを断ち切って振り捨てた利権政治は、効用価値を唯一絶対の価値として社会構造の根幹にすえてしまった現代日本の病根の象徴である。響子と峻一は効用性とは異なる価値基準に基づいて行動するが、効用価値の原理に基づく世界に縛られている人間には彼らの行動が理解できない。
けれど、彼らふたりが彼らのためになした行為が、結果的に彼らを理解しないひとびとをも含めた人類の救済につながるのである。つまり、効用性・実用性とは異なる原理による行動こそが、脈々たる普遍的なるものの流れを維持し、意図せずに結果的に人類を救済するのである。槌橋監督の予言する新しい価値とは、美的価値と宗教的価値が融合された価値であるのかもしれない。
<TRUTHS: A STREAM>は、わたしが久々に出会った人類と芸術への愛情に満ちた骨太な映画作品である。海外でいち早くこの作品が評価されたのも、槌橋監督のまなざしが、文化や宗教を超えた人類共有の問題にむかっているからに違いない。考えつくされた構成とことばによって編みあげられたこの作品は、見るたびに新しい発見と謎解きの楽しさを味わわせてくれる。
そしてわたしにとっては、山下葉子という女優を知ったことも大きな収穫であった。山下葉子以外に難解にして長い台詞を涼しい顔で語る響子を演じて違和感のない女優を想い描くことができない。まさに槌橋監督と吉川晶子プロデューサーの慧眼であろう。そして、この作品の成立に必要不可欠であった、映画興行の常識からははずれた3時間という上映時間を許容した吉川プロデューサーのなみなみならぬ度量と意気込みにも敬意を表したい。
この映画にかかわったすべてのひとびとにとって、この作品が輝かしい"始まり"になるに違いない。そして、ひとりの観客としてのこの映画との出会いは、わたしにとっても"始まり"を予感させるものである。
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