A Tsuchihashi Masahiro film TRUTHS: A STREAM 監督のエッセイ
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秘められたる力
先日ロフトプラスワンで行なわれた「引きこもり」についてのトークイベントを観に行って来た。 斎藤環医師と宮台真司氏のトークである。 この「確信」に関して、トーク後に「どのようにすれば(自己を肯定する)確信や(他者と対峙する)自信を得られるのか?」という質問があった。斎藤氏は、確信や自信というものは、やはり他者との関係を通して得られるものであるので、社会間系の中で得られるよう努力すべきだと返答している。宮台氏は、そのためにはコミュニケーション・スキルを磨く必要があるとつけ加えている。 これらは精神医学的、社会学的見地からかんがみて、健全に社会に適応していくための基本的方法論であるが、僕はまったく別の、ある意味逆の方向も考えられるのではないか、とも思った。それは芸術的見地から見た正当化の方法だ。 以前、「引きこもり」の人たちのことを初めて知って僕がまず思ったのは、彼らには人並みでない潜在能力があるのではないか、ということだった。 通常我々は社会化して行く過程で、自己と社会との軋轢を解消するために自分の感覚や思考を抑圧して、不合理な現実に適応させることを行なう。意識的または無意識に、我々は何らかの自己の内的環境を破壊する事によって、社会の中で他者と共存する術を身につけているのだ。 しかし、「引きこもり」の人々は、このような「自己の破壊」を行うことを意識的に避けて、自己防衛を強固な意志のもとに行っている人たちであると考えられる。これは大変な労力を必要とすることだ。「常識」という透明な専制君主の支配下に置かれ、強大な社会関係の渦の中に不可避的に取り込まれてしまうのが私達一般的な人間である。ところが、「引きこもり」の人達は、多くの喜び、楽しみ、希望、愛、未来を犠牲にしてさえも、自分自信を嘲弄する自己の理性の声を聞きながらも、敢えて自らの感覚世界を守り、他者との関係を否定するのである。そのような苦悩を自ら引き受けさせようとする力はどこから沸きあがってくるのか? この問題を考える前に確認しておかなければならないのは、(宮台氏がしばしば語っているように)「社会的であろうとする事が、本当は反社会的(より解りやすく言うと、反人間的)になってしまっている」という近代社会の現状である。この社会自体の矛盾が、無意識のうちにそのことに気付いてしまった若者たちを極端な行動に駆り立てる事件が最近頻発して起こってきている。 「社会内に生きることが人間性を潰すことなら、人間性を守るために反社会的または脱社会的な行動をとらなければならない」という意欲のもとに、酒鬼薔薇聖斗をはじめとする少年の殺人者たちや、破壊的カルト教団は行動を起こしているのだ。 これらの兇悪犯罪も実のところは「抑圧された人間性」が試みている「人間そのもの」を回復しようろする押し留め難い欲望の、ひとつの事例であろう。「心の闇」をも含めて、社会に抑圧される前に人が持っていた原初の肉体と魂の力は、理性や感情で簡単に圧し留めることが出来ないほど強いものなのだ。 「引きこもり」に人を向かわせているのも、この力ではないかと考えられる。だが、先の他者を破壊して自己保存を図ろうとする者たちと比較すると、「引きこもり」の人たちはずっと健全な方法で、人間性を守る力を利用しているように思える。斎藤医師も明言していたが、「引きこもり」は犯罪予備軍では断じてないそうだ。 「引きこもり」行為は、(斎藤氏の言うように「独善的」であるとしても)原初的精神活動維持のための必然的様相を呈している感がある。 そして、一般の社会常識からはずれて、このような性向を肯定的に捉える事の出来る領域が社会内に存在している。それが、「芸術」の領域である。 優れた芸術家の特性のひとつに、独創性というものがある。これは「様々な他者が作り上げた価値システムから、どれだけ遠い距離をとって作品が成り立っているのか」ということである。つまり、他者の価値を否定して、自分以外には何の根拠も持たない「独善的価値」を徹底して、作品という形式に昇華させる事である。こういう「自分勝手」は簡単なようで中々難しい。 人間は弱いもので、どうしても他者を手本にし、学び、真似をし、盗み、評価の為に人々の感性に歩みより、妥協し、共感を手に入れようとする。しかし、「引きこもりの」人達はこのような性向を最初からある程度唾棄している。その意味で、彼らは優れた芸術家としての素養をすでに示しているのだ。 芸術家がなぜ創作活動を行うのか?ほんの一部の成功している作家は別にして、殆どの芸術家は(特に日本では)社会的に蔑まれている存在である。多くの人々から「生活に役立つものを何も生産せず、日々無意味な事に時間を費やしている」という評価を受けている。人生をかけた修練を一生続けていく芸術家達は、その途中段階で作品が向上している間は確定した評価は得られない。しかも、作品のクオリティーが高まり、独創的になればなるほど他者には理解されなくなり、よりいっそう一般的評価を得られず、社会から見捨てられてゆく。そして当然生活は厳しい。 このような苦悩の人生を、なぜ芸術家は敢えて送ろうとするのか?それは、「引きこもり」の人たちと同じく、「不可避的な生命の力に押し流されて」創造活動を行わざるを得ないからである。 ある意味、常識的判断からすると、芸術家は生来的に精神を病んでいる者であると言えるのではないだろうか。聞いた話によると、ハイネが心理治療の為にユングを訪れたところ、「精神分析は君達芸術家にとっては百害有って一利無しだ」と追い返されてしまったそうだ。苦悩は創造には必要不可欠ということか。だとするならば、芸術的見地からするならば、苦悩を根拠に「引きこもり」を徹底して独善性を強固に維持する事は、非常に奨励される事ではないのか? 実際、芸術活動に「引きこもり」は必要とされる状況である。セザンヌもサン・ヴィクトワール山を描くのに引きこもったし、ニーチェもゴッホも仕送りで生活していた。スコット・ラファロも、あの驚異的演奏を身につけるために山篭りしたと言うし、グレン・グールドはコンサートも止めカナダの片田舎に引っ込んで、夜な夜な電話だけで外界とコンタクトを取っていたという話だ。 社会からの断絶によって優れた芸術性が育まれるというということは歴史が証明している。 最近注目された、アイトサイダー・アートと呼ばれる、一点の迷いも偽りも無い、最も本質的な芸術作品を創作している人達の多くは、最大級の「引きこもり」である。その一人ヘンリー・ダーガーは30年以上も密かに自室で数万ページに及ぶ物語を書き、数千枚に及ぶ絵を描き続けたのだ。その凄絶な美の力たるや!!! だとするならば、「引きこもり」の人達も、よりいっそう独善的になるように努め、社会との関連を徹底して絶ち、自らの感性を外的な歪曲に疎外される事無く研ぎ澄ますよう、最大限努力するならば、その結果として生み出される何らかの芸術的様相が(よしんばそれが芸術作品として結実しないとしても)社会にとって非常に高い価値のあるものとしてフィードバックされる可能性を持つのである。 かつて、「芸術」という言葉が生まれる以前に芸術家は「ハレ」の場を司るシャーマンとして存在していた。芸術活動とは、作品を形作るという以前に知覚と精神と魂の変容そのものなのである。芸術が社会に与えるものの本質は、存在の向う側に流れる、不可視かつ不可知的な無尽蔵のエネルギーを「生の昂揚」へと正しく導き出すことである。 それによって人々は(意識しているかしていないかに関わらず)、この「誤れる」社会において自らを喪失することなく生きていく足掛かりを得るのである。このような活動が社会に必要であるということは、文明の起源から数千年の時を経ても「芸術」が未だに社会内に存在しているという事実で証明されている。 「引きこもり」の人達の精神と感性の有り方は、芸術作品と同じように現実社会にとっての、ひとつの道標となっているに違いない。彼らは「磨耗していない感性」という観点において、我々一般人より確かにシャーマンに近い。ならば、彼らは「確信」や「自信」が必要だと言う以前に、自分達は「選ばれし者」だということに気付くべきである。 そして、「引きこもり」の人達は自らの社会内での重要な立場と能力を認識し、「自分達は無力である」という偏見から脱却して、望まずとも神から与えられた賜物をないがしろにせぬよう、自己の直感判断を信じて生きればいい。その生の有り方自体が、我々の社会に有益なものなのである。 このような人達が社会にとって「役立たず」であるという考えは、文明を疲弊させ、人々の苦悩を増大させる方向に社会を動かすだろう。オウム真理教や酒鬼薔薇聖斗を生みだしたのは、そのような単純化された認識による、排他的画一化社会を構成するわたしたち一般人自身である。 凶悪化する精神の闇を他人事だと思うな。それは我々自身の影なのだ。 May 25, 2000 |