Essay; Film Director TSUCHIHASHI Masahiro 監督のエッセイ
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追悼と感謝 中本憲政撮影監督 このページの更新を1年以上行わなかったが、その間には様々な出来事があった。神戸市からの依頼を受けて創った新作短編、前作の東京と名古屋での上映、大学での新しい実習授業、十数年ぶりに再開した音楽活動・・・その中で、最も大きな出来事、というよりもショックであったのが、私の第1作『TRUTHS: A STREAM』の撮影監督であった中本憲政氏が亡くなられた事であった。 中本氏は、『TRUTHS: A STREAM』制作において我々が最もお世話になった方であった。制作スタッフの中で映画業界関係者が撮影部しか居ないという状況で、カメラをはじめ、あらゆる機材の安価な調達と、現像所や機材会社、編集技師等の様々な職人の紹介、現場での的確な段取りと進行など、制作の根幹に関わる重要な部分が中本氏の御力添えで可能になったのである。 十代後半から撮影の仕事に携わっていた中本氏は、我々の作品に参加された時点で既に30年弱現場経験があり、様々な撮影・現像・照明の技術に精通しておられた。その中でも特に白黒フィルムに関する知識と経験は群を抜いており、そのノウハウが、我々の行った非常に困難な撮影「無照明白黒ネガ撮影+カラーポジ・ブローアップ焼き」を成功に導いたのである。 詳しくは制作ノートを読んで頂きたいが、前代未聞の「全カット現像時間調整による絞り決定」も、中本氏とその長年のパートナー安斎公一氏(タイミングマン)の「技」と「熱意」が無ければ成し得なかっただろう。 また中本氏は、ボランティアスタッフばかりの我々の現場でも、素人助監督を怒鳴りつける事も無く、逆に現場の基本事項を一々教えながら、難しい撮影を行っておられた。 これは、数多くのメジャー映画やプログラムピクチャー、さらにはコマーシャル撮影を経験された上で、敢えて面倒な「インディペンデント映画」の撮影監督を安価で引受けた、筋金入りの<活動屋>の、映画に対する絶大なる「愛」の成せる技であったのではないかと思う。 中本氏は、本当に「映画のため」に映画を撮っておられたのだ。このような特別な「志」を持って映画を撮られる方に出会う事が出来て、私は本当に幸運であった。 我々の映画以外にも中本氏は幾つもインディペンデント映画を手がけられたようだ。中本氏は、そのどの作品にも我々の映画と同じように力を注がれたに違いない。多くのインディペンデント作品が、中本氏の貢献の御陰で生まれていたのである。 それら映画作品のうち3本が、このたび有志によって追悼上映される事となった。こちらの案内ページをご覧頂きたい。私の作品は上映時間の長さ故に掛からないが、中本氏が残した「志の映像」を、皆さんにもご覧頂きたいと願う。 また中本氏は、私が講師をお願いした神戸芸術工科大学での撮影の授業にも大変な熱意をもって対峙された。メディア表現学科映画専攻創設にあたり、数千万円規模の撮影機材の大学への寄付やドリーなどの入手にご尽力頂いた。本学映画専攻で、デジタル機材だけでなく、フィルムでの映画教育を行う事が可能になったのは、全て中本氏のお力添えによるものなのだ。 そして授業が始まると中本氏は、あらゆる撮影情報が詰まった分厚い手製の教科書を膨大な時間と手間をかけて自ら作成され、フィルムとデジタルの両方の撮影について、独自に蓄積された様々な知識と技術を、撮影初心者の学生にも毎回真剣勝負で教えられたのである。 この成果は、最後の撮影実習授業直後に、たまたまマガジンの中に残っていた100フィートのフィルムを使って、図らずも中本氏の人生最後となった映画撮影を私と共に行った時、助手役の学生達の現場での動きが、授業前と雲泥の差で俊敏で的確になっていた事に、はっきりと表れていた。 中本撮影監督「人生最後のショット」は、中本氏へのオマージュとして『神戸蜻蛉玉演戯』のエンディングに使用した。その「銀残し疑似夜景」映像に浮かび上がる「神戸港と光輝く観覧車」は、学生達と共に数秒でカメラをセッティングして回し始めたとは到底思えぬほど、美しく深みのあるイメージであった・・・ 中本氏が撮られた数々の映像は、それぞれの作品に共感した人々の「魂の記憶」として、各々の「純粋身体の」中に、永遠に刻み込まれる事だろう。
「中本さんありがとう。そして、さようなら・・・いつか存在を超えた場所で相見える、その時まで。」
槌橋雅博 Jan 6, 2008
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