この映画では、音楽はほんの数箇所にしか使われていません。それは、風、水などの自然音や、車や暖房のノイズなどの実音も、それ自体がある種の純粋な音楽として成立しているという考え方に基づいています。さらに、映像というもの自体が、その本性において非常に音楽的なものであり、不必要な強調や効果を、音楽によって加える必要がないという発想によってでもあります。
そのこだわりの中において使用された音楽がどのようなものか少し解説をすることにします。
ALLE MENSCHEN MUSSEN STERBEN (a)
オープニング・タイトルで使われるこの曲は、バッハのオルガン小曲集より選んだもので、パイプオルガンと12本のチェロによるストリングスというユニークな編成で、非常にゆっくりとしたテンポで演奏されています。
堀越昭宏による荘厳に鳴り響くオルガンが、「生と死を包括した人間全体」の偉大さと重要さを示し、柔らかく響く四声のストリングスが生の豊かさと痛み、死の深淵さと悲しみを表しています。ストリングスにバイオリンとビオラを入れず、チェロだけにしたのは、井上智子によるチェロの深い音色を幾つも重ねることにより、
『なべて人は死すべきものなり』という避けられない現実と、その認識のうえで生きる「生」の重さを、より強く表現するためです。 小曲としてはあまり注目されていないこの曲の演奏の中では、他に類を見ない雄大さを感じさせる名演奏として記憶して頂けることを期待しています。
SHADOWS OF The PALE GRAVITY 1.2
&3 (c)
この曲は主人公の車が町や海辺や山あいを疾走するときに使われる曲で、槌橋によるコントラバス(ピチカート)のソロ・インプロビゼーションです。その重い低音は、人の魂の底にある苦悩をえぐり出すように響いています。主人公の限界まで行き詰まった重苦しい心理状態と、それから逃れようともがき苦しんでいる様を表現している曲です。
CIRCLE INFINITY (c)
この曲は、カメラが3分間をかけて360°水平回転するワンシーン・ワンカットに使われています。使われた楽器は槌橋のコントラバスと岡部洋一によるメタル・プレートとゴングです。コントラバスは開放弦及びハーモニクスを使って、アルコをブリッジ近くで擦り付けるように用いて、明瞭な音程を出さずに、人の叫び声のような荒々しい倍音がでるように演奏しています。こうして出した音をそれぞれ違ったバージョンで7回録音して、映像にあわせて微妙に音質を変えてミックスしています。そのうちの2つの音は、ゴングとプレートの音と合わせてカメラの動きに同機して、映画館を一周してゆきます。観客が画面の枠外の世界を、音のイメージを通して空間的に実体験できるように意図されているのです。映画館で音の回っていく様子を注意深く聞いてみて下さい。
YET / ALREADY (b)
主人公たちの、極限まで張り詰めた不安定で重苦しい心理を表すことを意図して作曲されたこの曲は、7拍子のリズムを使い、ハード・アバンギャルド・ロックからフリー・ジャズ・スイングへ展開する独特なアレンジのインプロビゼーションです。
7/8・ロック部分は、堀越のドラム・プログラムとローズ(キーボード)、槌橋のミディベース・シンセとエレクトリック・ベースで演奏されています。タイトで重いドラムのグルーヴにのって、切れ切れのミディベースのソロが熱く突き抜け、ローズによる不可思議なテンションのコードワークとクールなクロマティック・ラインによるオブリガードが、精神と身体に言いようのない「絶妙の違和感」を感じさせています。とにかく「熱い」一曲です。
7/4・スイング部分は、堀越のピアノ、槌橋のウッド・ベース、岡田朋之のドラムスというアコースティックな編成で演奏されています。堀越の知的かつファンキーなピアノがオーバー・ダヴでスピーディーに交錯し、それを、重いグルーヴで疾走するウォーキン・ベースと、切れのある堅実なスイングのドラムが支えています。「意志を持った混沌」といった表現が似合う曲ではないでしょうか。
THE END OF THE END (c)
この曲は、[ CIRCLE INFINITY ] の別テイクのミックスを変えたバージョンです。使われているのはコントラバスだけで、[ CIRCLE
INFINITY ] に比べてより痛々しい叫び声のような音が強調されています。それは狂気と理性が一体となって人を突き動かす、押し込めることのできない強い衝動をイメージしたものです。心の深みに秘められた、長い間蓄積されてきた堪え難い痛みが、開放を求めて噴出し始める瞬間を表現するために作られた曲です。
風・水 低音+自然音
この映画では風や水の自然音を音楽として取り扱っていて、特に水音は重要な位置を占めています。ほとんど全ての屋外シーンと夢のシーンに、様々な流水の音が通奏低音として継続的に使われています。かすかにしか聞こえないものから、豊かに響く滝や波の音まで、多くの水音が存在しているのです。それらは観客の意識、無意識に働きかけ、自然や存在すべてと人間のつながりを実体験として知覚させる働きをもつよう意図されています。さらに後半の山中での長い作業シーンでは無数の風と水のオ−ケストレ−ションに加え、聞こえるか聞こえない程の低い地鳴りの音が入っており、作業の苛酷さと映像の緊張感をより高める働きをしています。
言葉の対位法 自然音の対位法 (d)
映画のクライマックスで使われる[ 言葉の対位法 ] とエンディングで使われる[ 自然音の対位法 ] は、「全ての音が音楽である。」というこの映画の音楽の基本的コンセプトを最も明解に具体化した曲だといえます。バロック時代の重要な作曲方法である「対位法」のように、いくつもの言葉や水音とを組み合わせ、丹念に折り込み紡いでいく作業を経てこれらの曲が出来上がりました。
[ 言葉の対位法 ] では、主人公たちの深い内省により生まれ出た言葉や、彼らが互いに語り合った中での重要な言葉など、この映画の中での最も意味深い言葉の数々が立体的な音として、様々な映像の断片と共に交錯しています。
[ 自然音の対位法 ] では、撮影現場であった長野県入笠山(にゅうかさやま)の山頂近く、海抜1850メートル付近にある大阿原湿原とその周辺の原生林でレコーディングされた沢山の水音が使われています。この映画は「流れ」をテーマにしているので、これらの涌水、石清水、清流、水滴の豊穣なる戯れを、映画の総括的イメージとして捉えることができるかもしれません。
A STREAM SHINNING (c)
映画の最後に主人公たちが到達した世界観を示唆するための音楽として作られたこの曲は、槌橋による6弦ミディベース・シンセサイザーとコントラバスをオーバー・ダヴしています。
ミディベース・シンセの優しい音色による簡潔で幽玄なメロディーは、天空にあり、かつ人々の内側から射す光のようであり、またシンプルながら豊かな倍音を持つハーモニーは痛みと悲しみを包み込む「生」の豊かさを想起させるようでもあります。さらに、大地を揺るがす重々しいコントラバスのルート音は、死を内包する生の総体としての人間を、飛翔への契機に向って変容させる、生命の深淵から沸き上がる力強い潜在力の舞踏をイメージしています。
この単純ながら強く美しい曲により、映画が提示しようとする「希望と力」のあり方を、感覚を通じて少しでも身体に伝えることができれば、我々の願いが届いたといえるでしょう。
(a) J・S・バッハ 作曲 槌橋雅博 編曲
(b) 槌橋雅博 堀越昭宏 作曲・編曲
(c) 槌橋雅博 作曲・編曲
(d) 槌橋雅博 作曲
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