DIRECTOR'S COMMENT for NEW YEAR

 

 

新春を迎えて 



神戸に制作拠点を移して、5回目の正月を迎えた。昨年は、監督第2作の仕上げと神戸での上映、映画祭の企画・セレクション、大学での映画教育の準備等、制作よりは裏方的仕事の方が多い一年であった。

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今年は、『動・響・光』制作により長い間中断していたジャズドキュメントの編集に戻り、出来れば年内に仕上げたい所だ。実は、夏にバリー・ハリス氏や近藤大地氏達が萩市でワークショップを行うそうなので、それまでに仕上げようとも考えたのだが、今のプランではそう簡単に出来上がりそうもない。

これから追加撮影や研究調査も必要になるだろう。私が熱意を持って制作に向かう作品ならば、当然単なるドキュメンタリーでは終わらずに「芸術映画」に変容する事は致し方なかろう。複合する様々な要素を如何にひとつの作品に纏め上げるかが課題だ。ありきたりな「心温まる子供との触れ合い」的な作品にはならないので、期待して頂きたい。

「音楽」は私自身、個人的情熱を持って関わっている分野なので、もしかすると皆の期待を裏切る作品に変貌するかも知れないが・・・


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音楽と言えば、最近は近藤大地氏の指南の下、ベートーベンとブラームスの交響楽に嵌りつつある。実は私はバロック音楽は日々耽好しているが、モーツアルト以降の交響曲は、「サウンド」と「イディオム」が非常に「わざとらしく」「映画音楽風」に聴こえて、どうしても好きになれなかった。しかし、フルトヴェングラーの指揮による「第九」を真剣に聴き込んでみて、それが作曲家の問題では無く、「演奏」(特に指揮)の問題である事が判り、毛嫌いしていた領域の音楽に踏み込む決心がついたのだ。

カラヤンや小沢征爾による皮相的なベートーベンを聴いて、その音楽を価値判断してはいけない。年末の「第九」など、もっての外だ。やはりフルトヴェングラーで聴いてみなければ、本当の所は判らない。もし貴方がクラシック嫌いだとすれば、それはテレビやラジオで頻繁に耳にするクラシックが、作曲家の本質を捉えていない、質の低い「フェイク」ばかりだからだ。

一昨年は自作映画の音楽制作で「邦楽」に直に触れ、目から鱗の落ちる思いであったが、今度は身近にあって隠されていた音楽の「大海」を冒険する「新鮮な」楽しみを味わっている。

また、私がクラシック・ピアノの「頂点」に立つと考える偉大なピアニスト「ウラジミール・ホロビッツ」の初来日公演ビデオを、古いベータマックスの中から発見した事も、昨年の予想外の収穫のひとつであった。

この演奏は以前から悪評高く、私はどうもその悪評については「胡散臭い」ものが有るなと思い、なんとか自ら確認してみたいと考えていたものであった。そしてそのリサイタルのビデオを見終わった時の予想通りの「感動」は、やはり「評論家」の殆どは芸術の本質をまるっきり理解していない「美的知覚障害者」であるという事を確信させるものであった。

結局の所、彼らが芸術を腐敗させている「元凶」であることは間違いない。かといってその愚かな言明に右往左往する浅薄な「クリエイター」達も同罪ではあるのだが。

このコンサートについては近々、近藤大地氏が連載で寄稿して下さる予定なので、お楽しみに。音楽を「創造」する事が、如何に音楽の「理解」を深めるかを、とくとご堪能あれ。


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さて、今年の4月から、神戸芸術工科大学で、映画制作教育を始める事となる。上記「音楽」も酷い現状にあるが、「映画」に関する社会全般の「価値判断能力」の低下は、見るも無惨な状態である。ここ40年、ほんの僅かの例外的作家を除いて、世界全域で映画のクオリティーは急速度で低下している。しかもその事に世の殆どの者が気づいていないのだ。

この現状に対する対抗策として、私は大学での映画教育を真摯に行う事を決意をした。常に妥協無き真剣勝負を試みているクリエイターとして、教育活動にも当然手抜きは無い。全身全霊をかけて、「最高の価値基準」をクリアする作品を創造出来る若き作家を生み出せるよう努力したい。

「音楽映画」と「美的教育」が今年の二大テーマだ。そして、その先には、「絵画と精神」又は「詩と叡智」に関するフィクション作品が予定されている。これも神戸での制作となるだろう。この街は映画制作に非常に向いている良い街なのだ。今後の作品にも是非期待して頂きたい。

 

槌橋雅博

Jan. 1st. 2006

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