A Tsuchihashi Masahiro film

TRUTHS: A STREAM

監督のエッセイ

 

始まりの終わりに (1&2)

 

2001年を終えて、95年から始った「TRHTHS: A STREAM」にまつわる活動も、8年目をむかえる。映画祭やロードショーを終え、これからは美術館などでの上映と、海外(ドイツ語圏以外)への配給、DVD製作、衛星やケーブル等での配信など引き続きやらねばならない作業が山積みである。

東京から地元の神戸にオフィスを移転し、映画以外の仕事と新規事業に日々の時間の殆どを費やす中で、並行して配給と次回作の準備を進めなければならない。映画制作者としては、かなり厳しい状況になってきている。しかし、この逆境を乗り越えなければ作品を残してゆくことは出来ないだろう。

孤立無援のインディペンデント作家が、娯楽作品ではない「アート・ワーク」を商業映画のフォーマットで製作・配給するというのは実に困難な作業である。だからこそ、敢えて行う意義があるのだが。

私は映画を単に「メディアの一形態」としてしか捉えていない。印刷物(本、雑誌)や録音物(CD、テープ)等と何ら変わらない位置付けにある。だから、一部の映画評論家やジャーナリスト、シネフィル達がよく言うような、「スタジオ・システムで作られた娯楽性ある作品でなければ本当の映画ではない」というような判断は全く誤りであると考えている。

「大企業出版社で出された、娯楽小説だけが本当の本だ。」などという言明がいかに馬鹿げたものであるかは明白だろう。映画はどのような形態でも在り得るし、またあらゆることが映画で顕わされるべきなのだ。それは、情報やイメージの伝達方法が、人の生き方と同じように「如何様にも在り得る」のと相似である。

聞いた話では、ジャズ・ピアニストのマッコイ・タイナーは「音楽とは何か?(What is music?)」という問いに「生は音楽だ!音楽は生だ!(Life is music! Music is life!)」と答えたそうだ。このような感覚は長年探求を続けている音楽家や美術家なら誰でも持っているものだろう。だが、同じように語る事が出来る映画監督が果たして今、世界中に何人いるだろうか。

妥協の産物として出来あがる多くの商業映画に携わる「職業監督」達からは程遠い言明だ。ところが、現在多くの人々の目に届く映像は、そのような「妥協の物質化」だけであり、それらこそが「映画とはこのようなものだ」という誤った認識を人々に与え続けている元凶なのである。

映画はまず自由でなければならない。どのような形態、内容、表現の作品でも皆同じく「映画」なのである。フィルムであろうと、ビデオであろうと、CGであろうと、また、娯楽であろうと、記録であろうと、日記であろうと、芸術であろうと、全て同じ映画として扱うべきである。

ベルリン国際映画祭のヴォルフガング・シュタウテ賞の授賞式で、フォーラム・ディレクターのグレゴール氏がいみじくも宣言していた言葉に私はいたく感動した。曰く―

「授賞式を執り行う前に言っておかなければならないことがあります。私達は自分達の組織からは、いかなる賞も与えておりません。それは、私達がどのような映画も平等に取り扱わなければならない(We think every film should be treated equal.)と考えるからです。」

さすがはグレゴール氏だ。他の映画祭のディレクター達とは一段違った地点に立って居る。私達の作品は受賞してしまったのであるが、本来映画はそのように格差なく人々に提示されて然るべきものだろう。

映画祭が形骸化し、コンペティションといっても、事前に内々で招待作も受賞作も殆どが決まってしまっているという出来レースが横行する現状で、「賞」などは、映画のクオリティーと全く何の関係もないものとなっている。受賞した私が言うのもおかしなことだが、実際、近年の「3大映画祭受賞作」というものには碌な作品が無いし、それ以前に映画祭自体に優れた作品が現れる事が殆ど無い。

あらゆるメディアを巻きこんで一体化した「排他的馴れ合いシステム」で動いている映画業界では、もう新たな「天才」は活躍する事が出来ないであろう。現状を鑑みるに、世界中どの国を見ても、全く映画の才能の無い凡庸な人間ばかりが映画監督になっているとしか思えない。 

近年の映画を目にするにつけ思うのは、かつて強大なスタジオ・システムの中で作られていたにもかかわらず、非常に高い美的価値を有していた映画というメディアが、どうして現在このように「見るに耐えないもの」となるほど地に堕ちてしまったのか、ということだ。

ラング、フォード、小津、ドライヤー、ベルイマン…かつての偉大な監督達は皆、本当に素晴らしい作品をいくつも残している。しかし、彼等の作り上げた優れた伝統を今の映画は何も引き継いでいないように思える。そう、なにより問題となるのは第一に「美の欠如」だ。

01/01/2002

日常的レベルでは、人は個々人の判断基準で「美」を判定していて、それぞれの「嗜好」という位置付けだけで語られることが殆どである。しかし、芸術の領域における「真の美」に関して言えば、実は「美」の判定は非常に緻密で複雑な作業であり、長期間に渉る探求と修練が必要とされる、最も高度な能力=技術である。

それは、個々の分野を徹底的に探求しているクリエイターの中でも、極めて優れた者だけが到達して知り得る、ある種の「創造における秘儀」に等しい。しかもその判定方法や基準は、美的判断を下しているクリエイター達をして自ら語る事さえ不可能な、創造の最中にだけ自己を越えて訪れる「神秘」なのである。

この「神秘性」という曖昧さゆえ、美的判断の正統性の根拠付けというものはどうしても論証不可能なものとなってくる。また、優れた芸術家であるほど各々の判断基準が極度に独創的(個人的)道程によって独自に獲得されたものなので、「美」を正しく判定している当の「美のマイスター」同士でさえ、(共有する部分は多くあるにせよ)その判断が完全に一致する事は難しい。それほど「美」とは簡単には捉えられない事象なのだ。

このような「曖昧さ」「根拠付けの不可能性」ゆえに、一般的に「美」は主観相対的なものとして受け取られてしまう傾向にある。だが、異なった様々な文化や時代に存在する、様々な優れた芸術作品の持つ個々の美的価値を、多くの人々が(個々人の文化や時代背景に関わらず)共通に高く評価している事実が人類の歴史の中にはっきりとある以上、それは個体を越えた何らかの広汎な基盤に支えられていると考えざるを得ない。

そう、「美的価値」の水面は奔放に流動しているが、その隠されたる深淵は極めて普遍的なものなのだ。この普遍性を人々が忘れて、「美」のあり方が相対主義へと単純化されてしまっている現状は、「芸術の自己検証作業」として生み出されたモダン・アートが世に蔓延させた弊害である。

確かに、「美」を伝統やイデア的価値から引き剥がして、芸術を自由化することは、芸術自体の本質的機能からして必要なことであった。しかし、モダン・アートの現状は「自由のための破壊」が慢性化して、「愚昧の正当化」「無価値の自己肯定」「隠蔽された商業主義と権力志向」ばかりが横行する、芸術の真の在り方とは対極に位置する所まで来てしまっている。

嘆かわしい事だが、「美の普遍性」を明確な形で現前化させ維持すべき当の芸術家たち自身が、「美」の破壊を行う張本人に成り下がっているのだ。このような文化状況の下では、自らが芸術家であるという意識さえ持ち合わせていない多くの映画製作者達に、「美」の創造を望む事自体が過ぎた期待というものであろうか。

つづく…

Feb. 10, 2002

 

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