Film Director: Tsuchihashi Masahiro

監督のエッセイ

 

最近の芸術体験

 

東京から神戸に戻って、そのメリットを感じる点に、京都・奈良へのアクセスの良さがある。高速道路を使うとどちらも1時間で着いてしまう。最近は、この地の利を生かして、日本の伝統美術を堪能するために、ふらりと古都を訪れる機会が増えて来た。 正倉院宝物や数々の仏像、絵巻物、曼陀羅など、毎回強く心を打つ作品に出会う事が出来て、現代社会の中で摩耗させられつつある美的感性をもう一度研鑽し直す良い機会となっている。

此処2ヶ月程では、特に伊藤若冲を観る機会が多く、その素晴らしさを再発見している。

私は幼少よりの葛飾北斎ファンであったが、絵画に対する判断力をある程度身に付けたこの年齢になって、再び若冲作品じっくりと批判的に鑑賞し他結果、若冲は北斎と同等、いやそれ以上に卓越した画力と思慮を兼ね備えた画家だと思い知る事と相成った。

今後は宗旨替えと迄はいかないが、「若冲ファナティック」を標榜する必要がありそうだ。

高名な若冲の素晴らしさは、私があれこれ説明せずとも皆々既に御存知の事だとは思うのだが、簡単に個人的感想を述べると、まず構図の完全性、そして揺るぎない確信を持った超絶なる筆致、孤高の表現技法を完成させた強靭な意志と、想像を絶する修練を継続した執念、そして「光」を具体化する絶妙の色彩感覚・・・等々、何処を取っても超一流である。

若冲は、狩野派や酒井抱一、丸山応挙、長沢蘆雪などとは隔絶した高みに立っている作家である事は間違いないのだが、今の一般的評価では皆横並び状態にされてしまっているのは、誠に残念でならない。これは、ホロビッツとアシュケナージを同じ様に並べている音楽界とも共通している問題点であろう。

音楽の方に目を向けるなら、今年の第1の収穫は近藤大地トリオのライブ、特に近藤氏の新曲、即ちジャズライブの一貫性に関する新たな音楽的コンセプトであった。

この夏に、近藤氏とバリー、リチャード、ルイスによるジャズワークショップが再び萩市で開催されたのだが、私はその直前のジャズ喫茶VILLAGEでのライブに駆けつけた。

このライブ前に、近藤氏が新曲を披露するという事を聞き、しかもそれが40分以上にわたる1曲であると知らされた私は、天才的作曲家である近藤氏が如何なる作品を上梓するのか、胸を躍らせて萩へと向かったのである。

その新曲であるが、それは実際には私が前もって知らされていたピアノ・トリオでの「楽章分け」した長尺の(クラシック的構成要素とジャズ的即興要素が計算されながら自由に配分された)1曲ではなかった。

それは、幾つかの自作曲とスタンダード・ナンバーを混淆して用いて、テーマ、ハーモニー、リズム、ソロフレーズ、リハーモナイズ、ベーライン等を様々に加工・調整・変形し、鎹となる「主題」を重心に深く据えながら、総体として1時間にわたる独自の「新曲」へと変容させへしまう、驚くべき音楽的新形態(新音楽概念・手法・作曲法)であったのだ。

私は、NYでの4年間の生活を含め、30年ほどライブ、コンサート、レコード、CDでありとあらゆるジャズを聴いて来ているが、このような作曲=即興=演奏の在り方を体験した事は一度も無かった。まさに驚くべき革命である。

かつて近藤氏がピアノ・トリオとシンフォニー・オーケストラの為の交響曲を世界に先駆けて上演した事を知り、後に録音で聴き、その時代に媚びない独自性と清明なる美意識、徹底して音楽的必然を追求する類い希な思考力、そして天賦の作曲能力に、落雷を受けたかの如くに驚いたものであるが、今回も同様の強大な感動を覚えた。

しかし、さらに重要なのは、曲自体よりも、近藤氏のピアノの音色が、この世のものとは思えぬほど美しく力強く、また深淵であった事だ。それは小さなYAMAHAのグランドピアノの音では無かった。まるで「神の恩寵」のような音色だったのだ。

その音色が「超越」を内包していた事は、次に弾いたバリー・ハリスの音色が、近藤氏に比べる桁違いに「雑然と濁って」聴こえて来てしまった事からも明らかであった・・・。まさかあのバリーが・・・しかしこれはまぎれも無い事実だ。

4年前、同じピアノを近藤氏がライブを終えた後にバリーが弾いた瞬間、あまりの音色の美しさに愕然としたものだった。それは以前のエッセイにも窺われよう。しかし、今回は逆だ。もはや近藤氏はバリーを越えてしまった。師弟関係では下克上だ。芸術は恐ろしい・・・

しかもその後のバリーのライブは、手抜きも甚だしいアバウトな酷い演奏であったので、私は非常に不愉快な気持ちに貶められてしまった。音にスピリッツが無い。これがあのバリーか・・・近藤氏の出来が良すぎてやる気を無くしてしまったのか? 一体私たち観客を何だと思っているのか。私はこの演奏の為だけに700キロを激走し、開演数時間前から並び、何万円も掛けて聴きに来たというのに・・・

私には理解不可能なのだが、ジャズ・ミュージシャンというものは時々目の前の客に対して非常に「不誠実」な演奏をする。これが真摯な芸術家との決定的な違いだろう。結局のところバリーは只のジャズメンで芸術家ではなかったという事だ。

かつて私がバリーに「音楽と神とはどのような関係がありますか?」と尋ねた時、彼は "That is all about!" と答えた。

その答えに偽りは無いと私は思っていたが、今回のライブを聴いて、私は騙されていた事を知った。神に向かって音楽を捧げるのなら、何時如何なる時も「絶対的に」真摯に音を出す筈である。しかし、彼にはそうでない時が在る。

この結末は、現在編集を中断しているジャズ・ワークショップの映画に大きく作用するだろう。果たして私は映画を完成する事が出来るだろうか・・・?

自分の事はさておいて、近藤氏の演奏はレコーディングしてある。暫く待っていれば発売される予定なので、楽しみにしていて欲しい。バリーの方は別のコンサートも録っているので、そちらが出るだろう。この日は結構良かったそうだ。

ところで、近藤氏のピアノ・トリオ交響曲第1番の方だが、こちらは正式にレコーディングもされておらず、第2楽章はまだ演奏すらされていない。 後発の小曽根氏のものや、マーカス・ロバーツがガーシュインの曲をトリオに流用したものなどはすでにあちこちで聞かれているが、先駆者近藤大地氏の名曲がきちんとレコーディングされていないのは実に残念である。日本のどこかに金銭的余裕のある理解者が現れる事を期待したい。

さて、先に若冲について書いたが、近藤氏は後世、若冲が日本を代表する画家と称されるのと同じ様に、日本を代表する作曲家と称されることだろう。 ジャズやクラシックの伝統を輸入しているこのアジアの小国で、ジャズとクラシックの伝統を融合し改革する傑出した人材が現れたのは画期的であると同時に非常に示唆的でもある。

たとえば若冲は、修行した狩野派の手法に飽き足らず、派閥から離脱し、個人で様々な寺院から古の南宋画を借り受け、10年間に1000枚を模写して独学で技法を学んだそうである。また北斎は、江戸末期に入って来た洋画を学んで独自のスタイルを身に付けている。

現在我々は漠然と「日本画」と呼んではいるが、これは元々、中国からの輸入文化で、西洋文化も混ざって続いて来ているものなのだ。

芸術表現の中心にどの文化が在るのか、という事とは関係なく、個々の優れた芸術家は、優れた作品を世に残して行くものなのだ。近藤氏は世界の音楽史を書き換える作曲家・演奏家に成ることだろう。今後、益々期待したい。

しかし、こうやってネットに書くと、すぐさま近藤式新作曲概念を剽窃する者が現れそうだ。真似したところでクオリティーは断然低いだろうが。

結局の所、応挙がいくらあがいた所で若冲にはなれないのだから・・・

 

Oct. 2, 2006

 

 


近藤氏の寄稿

始まりの終わりに (1&2)

ひきこもりと芸術

過去のエッセイ

 

Back / Japanese Index

Home